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GWW —ボブ・ディラン
Twitterより:
iTunesにはボブ・ディランが一曲もない。自分でびっくり。全部アナログ。そのためにプレーヤーはいまだ現役。いまターンテーブルに乗っているのは、緑色の円盤。《Troubled Troubador》という地下室「ビッグ・ピンク」でのザ・バンドとの演奏。愛聴盤のBootleg。

ディランは1978年の初来日しか体験していないけれども、大阪で二日連続して聴いた。会場全体が一つのエネルギー銀河となっていて、終わったら体も心も120%充電されていた。内から沸々と声を上げたくてたまらなくなっていた。

そんな時に詩の朗読の誘いがあったから一も二も無く。だから最初の朗読は、体の中に浸透したディランの1978年のリズム(例えば《Oh, Sister》)に乗って。

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実際はコルトレーンの《Ole》に乗って、
「野がぁ、唸る。
 南無野やぁ、小目野のぉあたり、
 風がぁ、ジャズがぁ起こり、
 草がぁびるびるとぉ、鳴る」
とせり上がるように詠んでいたはず。
でもディランの影響というか、歌唱からも学んだものは多い。
そのうち、尺八やシンセサイダーと共演して、
いつしかビリー・ホリディの低唱を理想とするようになる。

ヴォーカルに限らず、インストルメンタルでも
どこかに<語り>をもっているパフォーマンスが好きである。
歌と語りの間を自在にスライドするような演奏。
歌とも語りともつかない、或いは歌でも語りでもあるような。

ディランもまさしくそんな一人。
好きな曲をざっと挙げてみると:

・One Too Mamy Mornings
・Tomorrow Is A Long Time
・Mr. Tambourine Man
・Ballad Of A Thin Man
・I'm Not There
・This Wheel's On Fire
・I Shall Be Released
・All Along The Watchtower
・One More Cup Of Coffee
・Blind Willie McTell

ベスト10というわけではないけれど、曲との出会いや縁のようなものがあって。
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by r_bunko | 2014-05-24 23:50 | 音楽
アインシュタインと、そこらの春
昔読んだ本だけれど:
アインシュタインの自伝は、自伝と言いつつ物理の話ばかりでちんぷんかんぷん。
それでも止めずに外国語の原書をとにかく完読するのと同じく最後まで突っ走った。
薄い本なのでそれも出来たのだろう。おかげで大きな収穫があった。
たった一カ所だけ、がつんと解るところがあったのである。

それは、宇宙を知るのによりいい場所というのは無い、ということ。
宇宙の任意の一点は、どこを切り取っても同じ。
どの星から見ても宇宙は等しく同じ風景だ、というのである。
宇宙には特別な場所は無く、無数の観測中心点があるだけ、だと。

これには驚いた。
子供の頃からもっといいどこかを夢見、憧れてきたから、ショックでもあった。
それと同時になにやら、ここで十分やれるのだ、と励まされもした。
この星にいて、宇宙を知ることは、
どこかよその銀河にいて探求している人たちと同じ知見に至る。
E=mc²同様、シンプルで美しい考え。
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(Saxを吹くEinstein by Marica Onza 1993)


年月を経て、<そこらの春>に目が覚めた。
わずかな田圃と畑を縫う農道や、寂れた里山の麓付近。
野草も野鳥も種類は少なく、淋しいと言えば確かに淋しい。
どこか春を満喫出来る森か高原にでも行けたら、とつい思いがち。
そんなさびしさ、わびしさが降り積もって、かえってそこらの春に愛着が湧く。
ヒバリしかいなかったら、ヒバリに会って帰る。
いつもの場所のシロバナタンポポに寄っていく。
それでいいと思う。そこらの春は、どことも同じほんものの春なのだから。
そう思って歩いたら、そこらの木たちが応えてくれたのが「木霊日」という詩編。
そしてその日に辛夷の木で歌ったであろう一羽のアオジ
寒気が去って、ぽかぽかしたら、そこらへ出かけてみたい。
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by r_bunko | 2014-02-20 22:37 | 本・電子本
ふうらもぼくもどこへ行くのか?
朝方、twitterに呟いた後、あれこれ思いが巡ったので:

アンドレ・ブルトンは魚座生まれ。若い頃に『ナジャ』に衝撃を受けた。挿入されたパリのマツダ・ランプの写真にも。六角文庫の詩画のルーツはこのあたり。


ポール・エリュアールとマン・レイの合作『ファシール』は憧れの本。他にコクトーやロルカの素描に惹かれた。そんなところから竹ペンを愛用、のちに墨と筆で<ふうらかん>なるものを描くけれど、出発点は詩人の素描にある。

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(1978年頃か。ふうらかん以前の原ふうら。竹ペン)


ふうらかんは、絵の世界なのか、詩の世界なのか、作者にもふうらにも判らぬところがある。北条石仏が原像だから宗教の世界かと言うと、それも違う。微妙にどこからもずれているような気もする。それはそれで構わないけれど、正体のしれないものを追いかけるにはそれなりのビジョンが要る。その力をどこから得るか。それは意図しなくても、自ずから機能しているようにも思う。踵を着けずに、臨機応変の体勢をとった時に、やはり最も頼りになるものが主軸となってバランスをとっていくのではないか。それを信じてみる。


ではそれは何か。ぼくの場合は詩であろう。広義の詩である。広い広い広ーい意味での詩。詩がベースだから料理だから、絵も音楽も小説も映画も、科学も生物も宗教も全部そこに入れてしまうような、世界としての詩。摂理としての詩、思想としての詩、元素としての詩。存在としての詩。まあ、超広義だからあまり細かくは言いたくない。


もっと有り体に言えば、画力には自信がなく、宗教心も薄く、というだけのことであるかもしれない。その分、詩ならば責任も取れるだけの努力と困難と愉悦と悲哀を積み重ねた、と自分で思い込んでいるのかもしれない。それもそれで構わない。この未明体がどこへゆくのか、この未開体がどのように白んでゆくのか、それが大事だからである。


『ナジャ』や『ファシール』が伝えてくれたものはイマジネーション。その翼(翅)のありようや飛翔力であったろう。素描や俳句が好きなのも、想像力の翔ける広い空ががらんとあるからだろう。ふうらかんは北条石仏から飛び立った草の絮のようなものかもしれない、とどこかに書いた。その石仏自体も謎に満ちて、イマジネーションの乗算がそこにある。どこへ飛んでいくか、ほんとうにわからない。
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by r_bunko | 2014-02-19 20:39 | アート
ブルー・モンク、ブルー・ポエム
ブログ記事を書いて投稿する時に、あららと驚いていることがある。
詩のカテゴリーを作っていないのだ。
えっ! と自分で呆れて、されど今更追加もというのでそのまま。
ブログをスタートしたのは2005年1月。
詩は書かずもがな、というスタンスではいたけれど、
そうか、詩はどこかでもっと深く断念していたのかもしれないな。
表現は孤独な作業でいて、自分独りの営為では続かない。
いつかだれかの胸に届くだろうと信じて、はじめて発信の力を得る。
アイデンティティーを奪われるとどうなるか、身を以て体験した。
気力、意力はどこから出て、どこへ向かうのか思い知った。

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今日はセロニアス・モンクの命日。64歳(なんという若さだ)。
この稀代のジニアスは晩年の10年間、ほとんどピアノを弾かなかった。
精神も身体も病んでいたとはいうけれど、そのことが信じられなかった。
バド・パウエルは独房の壁の架空の鍵盤を指で押さえて、
見舞いに来たエルモ・ホープに「この音はどう?」と尋ねたという。
そういう人たちなのだと思い込んでいる。信じ込んでいる。
だからモンクが鍵盤にすら触れなかったことは気にかかる。
同様なことはドド・マーマローサにもユタ・ヒップにもある。
それぞれに理由も事情も異なる。ほんとうのところは誰にも判らない。
おそらく本人にも、そのようになる流れはどうしょうも出来ず、
なにか他人事のような哀しさもあったのではないか。

2011年に『春とピアノ』『春と石仏』を書いた。
そこでドドやユタに思いを馳せた。
ドドもユタもモンクも、もうピアノには戻って来なかったけれど、
ぼくはなにやら詩に戻っているのか、いないのか。
記事の投稿時に詩のカテゴリーがないのに呆れ当惑しているのである。
この十年ほど、詩のカテゴリーなど無くても事足りたのも事実。
昔のどこかではぐれてから、詩も生も常に未明未開の「?」であって、
それが時々小さな「!」に置き換わる。
野に出て草花や小鳥たちと同じ空気を吸えばそうなってくる。
それが出来なくなった、と嘆いているのではない。
元気になれば、またのこのこ野に出るだろう。
籠もっていても、鳥や木や風のような声はある。
セロニアス・モンクのピアノの音なんかもそれである。
今日も朝からたくさん聴いて一つの「!」を得た。
それがまた新たな「?」を生み出していく。
詩などは小鳥の地鳴きや囀りのように書いていたい。
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by r_bunko | 2014-02-17 20:55 | 本・電子本
そこらの春、ここらの雪
散歩したいけれど、どこか体の遠くでちょっとふらつくので自制。
風も時々思い出したように意地悪吹き。
昨年から<そこらの春>ということを気に留めて、
メモのような、フィールド・ノートのような詩片を綴っていた。
それがそこらへも出かけられなくなって淋しく侘びしい。
で、隣の空き地へふらふらと出る。
列島が南岸低気圧の大雪に見舞われた14日も雪の中へ出た。
この辺はうっすらと斑に積もっている程度で、
それが文字や紋様に見えて面白そうだったのだ。
雪の降る中だから体もカメラも長居はできない。
素早く手際よくあちらへ回りこちらへ飛び、
誰か目撃していたら、変人の狂態に映ったに違いない。

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そして変人は、雪の獏と出会う。
体つきは見事な獅子、けれど鼻が長く伸びているので、これは獏。
その他にも撮った写真をPhotoshopでコントラスト調整すると、
雪の描いた文字が面白く浮かび上がって来た。

 詩と写真「雪文字」
 詩と写真「立春のロゼット」

そこらどころか、ここらに縮んでしまったけれど、病後の最新作。
それからこの度の大雪に触発されて、雪の小詩集を編んでみた。
雪国に住んでいた頃の詩編で、表紙は獏にお願いした。

 小詩集『雪・白墨記』

初めて大雪に見舞われた土地は大変だろう。
我が身はもう雪掻きなどとんでもないことになってしまった。
雪国の老人暮らしはさぞ厳しかろう。
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by r_bunko | 2014-02-16 19:20 | 自然
チャーリー・パーカーに狂った夏
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昔々。
土砂降りの雨からジャズ喫茶に逃げ込んだ。
広い店内はがらんとして客はなし。
マスターはというと、カウンターの向こうでしゃがみ込んでいた。
流れていたのはパーカーの「ラヴァーマン」。
ずぶ濡れの体に沁みて来た。
その夏、パーカーに狂った。
(ここまでTwitterに書いた短文を再録)

  八月から
  空に
  架線が一本走って、もう
  南天の
  恐慌(パニック)
  ぎん、くら
  と狂う
  朝な夕なに、ダイアルの
  1、5
  、4、6、3、2、ぎん
  くら、と
  えも言われず

当時の「Pの天然」という詩の一部。
この通り、まずはDial盤を揃えていった。
金がないから一遍に買えない。
一枚ずつ吟味しながら、じっくりディグしながら。
この頃、パーカー以外のサックスが物足りなくなって弱った。

ダイアル 15-4632 を回せば、楽園の鳥に今も繋がる。
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by r_bunko | 2013-07-29 22:42 | 音楽
大榎 II
樹齢140年の老樹。
癌の末期のような状態で、秋まで保つかどうからしい。
見上げると、ところどころの枝先に新芽を着けている。
これが最後の春と木は自覚するのだろうかどうか。
カメラを構えると一羽の小鳥が飛んできて梢に止まった。
これも縁だな、記念だな、
ズームのほとんど効かないデジカメで難儀して撮り終わると、
小鳥はすっと飛び去っていった。
エノキと、カワラヒワと、ぼくと。三者の一風景。
夕日が傾いて、美しいシルエットを贈ってくれた。

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少し前に書いた詩:

  木霊日

小学校校庭の
榎が病気だという
楢茸擬にやられたそうだ
七年前にも
治療を受けたと聞いたが
また再発したのか
蝸牛山の水楢は心配顔で
権現平の桐に怒鳴った
弱気になるなよ
西日を拝みたまえ!
オレは大丈夫だが
と桐は答えて
金比羅前の山茶花と
公園裏の欅がみんな伐られた
公園裏の辛夷は
花をまんぱい捧げるそうだ
その頃みんなで
歌おうじゃないか
と参道口の阿部槇が割り込んだ
空に向かって
魂魄がなって
なに人間は知らないが
鳥どもは一緒に歌ってくれる
木霊も声を合わせてくれる
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by r_bunko | 2013-04-09 19:01 | 自然
新美南吉
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金沢に住んで間もない頃に浅野川近くの古本屋で見つけた、
新美南吉の最初の著作「手毬と鉢の子」。
まだ先代南陽堂の頃で、店内は天井まで本が積み上がり、
平積みのものも乱雑極まりなく、手が埃で真っ黒になった。
呆然としていても始まらないので、そこらを探索、
こども向けのイリンの百科事典と、この本が出て来た。
昭和18年の第四版(5000部)、まずまず売れていたのだろう。
南吉の名こそ知るのみで作品には縁がなかったし、
良寛にもまだそれほど関心のない二十代だから、
この一冊を入手しているのが不思議。
(いいね! と青二才の自分にボタン・エールを)

今年は南吉生誕百年、今日3月22日は没後七十周年。

  日暮れに
  楡の森かげで、
  まずしい葬式してた。
  小さい、白い
  棺には、
  ラッパや絵本を入れて。

  土饅頭の
  ほとりには、
  野薔薇やなんか撒いて。
  名まえが
  横にきざまれた
  小さい十字架を立てて。

  そして、みんなで祈ってた。
  ——小鳥よ、空から下りてこい。
  ——光よ、ここまで射してこい。
  ——ここに、こどもがねむってる。

『葬式』という詩。これをそのまま作者に。
  ——ここに、南吉がねむってる。
南吉の墓なら小鳥も空から下りてくるだろう。
光もうらうらと射すだろう。花も蕾を開くだろう。
わが裏庭には、珍しくイタチが現れた。
南吉忌だから、蝸牛山と鯰池のことも考えた。

新美南吉は悲しむこころをもった詩人である。
悲しむ力、を正しくもっていた人間である。
先の一書の奥付頁にある、南吉の検印。
なんだか今日はそれがしーんと目に沁みた。

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by r_bunko | 2013-03-22 23:53 | 本・電子本
大榎
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一昨日撮った小学校のエノキ。
昨日呑気に詩になど書いていた。

  この木はごのき
  えのきのごの木
  江の木のえのき    ※「江の木」と書いて「ごのき」と読む

  昔は枝をぞんぶん広げた
  空も大きかったし
  花も実もぞんぶんつけた

  昔の小僧は
  そこまで知らない
  花や実や
  木に来る蝶や鳥のことなどは

  おたがい老いて
  ぼうようとけぶる

今日偶々、この木を治療した人のブログを発見した。
この木がナラタケモドキに侵されて相当重症だとのこと。
樹齢140年近い。
この春の芽吹きを無事迎えてほしい。

下は去年五月の大榎。

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by r_bunko | 2013-02-25 23:18 | 自然
山梔子忌
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昼過ぎにようやく気付く。
相棒のTシャツ
今日はビリー・ホリデイの山梔子忌。

レスター・ヤングとのミュージック・ロマンスをじっくり聴く。
年齢にして20歳から25歳、信じ難いしなやかさ、艶と深み。
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by r_bunko | 2012-07-17 22:07 | 音楽



詩と、絵と、ジャズと……星と鳥と……漂泊文庫便り
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