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懐かしのフィールド散歩
病院でいろいろ検査を受けてきた。
最初の心電エコーは時間もかかるので、技師の指示に従いながら一句探って、
  晩年ハ霞ノ中ヲ飛ブ小鳥
イヤ、小鳥ハ可愛スギルカ、霞ノ中ヲ漕グ小舟、発想ガ陳腐ダナ……などと
息を吸ったり、止めたり、吐いたり、止めたりしながら、結局ものにならず。
晩年は、と詠みにいってしまうほど、今日の霞は濃く、遠目がきかなかった。
他に、スパイロメーター、ABI-PWV、CT検査など立て続けに約一時間強。
結果は後になるが、まあそれなりの用心事項もありそうだ。

せっかくだからと帰りは念願のフィールド散歩。
坂を下って窓から眺めた蝸牛山に向かう。
ハコベが咲き出していたり、マンリョウの赤い実を見つけたり、
久し振りにシジュウカラのおしゃれな恰好を見たりするだけで楽しく嬉しい。
オオイヌノフグリとホトケノザの群生を撮ろうとしたところで、
iPhoneのバッテリーが予告無く終了(そんな、50%はあったはず)。

谷田池は東側ぐるりの垣や藪がすっかり刈られ、
丸山公園裏の杉林周辺も以前に増して藪や下草がなくなった。
これでまた鳥たちの居所が無くなる。
かつてここに来ればいつでも逢えたアオジやアトリやミヤマホオジロ。
藪の好きな鳥たちがどんどん追われて、
藪の好きな鳥たちが好きなぼくが寂しがっている。
それでもこの日、はるか梢でウソらしき鳥影。間近でエナガの群れ。
コゲラやウグイスの声。シロハラが騒ぎ立てる声も聴いた。
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この春は花満杯の姿を見よう撮ろうと楽しみにしていたコブシの花芽が少ない。
昨春はあれほど着けて、大エノキに捧げたのに、これもなんだか淋しい。
(といってもビロードのぎっしりの芽と、花の終わり頃を見ただけ)
根元に寄ってみると、思いがけない草が生えている。
掻き分けると美しい玉がいくつか光った。龍の玉である。七つ貰った。

ゆっくりゆっくり、春を吟味して歩く。
お土産は龍の玉の他に、青軸の蕾、ソヨゴの実、コブシの枯れ枝など。

試験でもあったのか、半ドンの中学生たちとよくすれ違う。
最も遠い村から通っている生徒たちで、草地に座り込んで喋っている女の子も。
道草結構だが、今日はあいにくの霞だよ、と帰ってくると、
緊急にPM2.5の注意報が全国各地に出ているとのこと。
予報を調べての散歩計画だったのに、なんたることか。疲れがどっと出た。
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by r_bunko | 2014-02-26 23:16 | 自然
散歩をしてみた
そろそろ散歩したくてうずうずしていた。
寒く風の強い日が続いたが、今日はどうか。
午後一旦外出準備までして、日が翳って断念。
夕刻に日射しが戻って思い切って出た。
カメラも双眼鏡も持たない。iPhoneのみ。
ふらふらの時に誤ってトイレに落とした4sである。
ぼくもかれも臥せって徹底安静。
先に起動したのはこちら。
あちらはじっくり乾かしてようやく復活した。
その病み上がりコンビの初めての散歩である。

あては、幾つかあるコースの中で最短の羅漢寺。
水仙のラッパに吹かれて、
オオイヌノフグリに瞬かれて、
なんだか眼鏡の焦点が合わないので訥々と歩く。
途中、小学校の大榎に寄った。
生きているとも死んでいるとも立ち姿では判らない。

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羅漢寺では、素心蝋梅と白侘助。
夕日が射して華やぎ、曇ればまた翳るらかんたち。
iPhoneは幾枚かの写真を失敗し、
ぼくもまた気温の下がった帰りはほうほうの体。
でも、よかったな。
明日からは散歩日和になりそうだし。
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by r_bunko | 2014-02-22 23:13 | 北条石仏
アインシュタインと、そこらの春
昔読んだ本だけれど:
アインシュタインの自伝は、自伝と言いつつ物理の話ばかりでちんぷんかんぷん。
それでも止めずに外国語の原書をとにかく完読するのと同じく最後まで突っ走った。
薄い本なのでそれも出来たのだろう。おかげで大きな収穫があった。
たった一カ所だけ、がつんと解るところがあったのである。

それは、宇宙を知るのによりいい場所というのは無い、ということ。
宇宙の任意の一点は、どこを切り取っても同じ。
どの星から見ても宇宙は等しく同じ風景だ、というのである。
宇宙には特別な場所は無く、無数の観測中心点があるだけ、だと。

これには驚いた。
子供の頃からもっといいどこかを夢見、憧れてきたから、ショックでもあった。
それと同時になにやら、ここで十分やれるのだ、と励まされもした。
この星にいて、宇宙を知ることは、
どこかよその銀河にいて探求している人たちと同じ知見に至る。
E=mc²同様、シンプルで美しい考え。
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(Saxを吹くEinstein by Marica Onza 1993)


年月を経て、<そこらの春>に目が覚めた。
わずかな田圃と畑を縫う農道や、寂れた里山の麓付近。
野草も野鳥も種類は少なく、淋しいと言えば確かに淋しい。
どこか春を満喫出来る森か高原にでも行けたら、とつい思いがち。
そんなさびしさ、わびしさが降り積もって、かえってそこらの春に愛着が湧く。
ヒバリしかいなかったら、ヒバリに会って帰る。
いつもの場所のシロバナタンポポに寄っていく。
それでいいと思う。そこらの春は、どことも同じほんものの春なのだから。
そう思って歩いたら、そこらの木たちが応えてくれたのが「木霊日」という詩編。
そしてその日に辛夷の木で歌ったであろう一羽のアオジ
寒気が去って、ぽかぽかしたら、そこらへ出かけてみたい。
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by r_bunko | 2014-02-20 22:37 | 本・電子本
ふうらもぼくもどこへ行くのか?
朝方、twitterに呟いた後、あれこれ思いが巡ったので:

アンドレ・ブルトンは魚座生まれ。若い頃に『ナジャ』に衝撃を受けた。挿入されたパリのマツダ・ランプの写真にも。六角文庫の詩画のルーツはこのあたり。


ポール・エリュアールとマン・レイの合作『ファシール』は憧れの本。他にコクトーやロルカの素描に惹かれた。そんなところから竹ペンを愛用、のちに墨と筆で<ふうらかん>なるものを描くけれど、出発点は詩人の素描にある。

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(1978年頃か。ふうらかん以前の原ふうら。竹ペン)


ふうらかんは、絵の世界なのか、詩の世界なのか、作者にもふうらにも判らぬところがある。北条石仏が原像だから宗教の世界かと言うと、それも違う。微妙にどこからもずれているような気もする。それはそれで構わないけれど、正体のしれないものを追いかけるにはそれなりのビジョンが要る。その力をどこから得るか。それは意図しなくても、自ずから機能しているようにも思う。踵を着けずに、臨機応変の体勢をとった時に、やはり最も頼りになるものが主軸となってバランスをとっていくのではないか。それを信じてみる。


ではそれは何か。ぼくの場合は詩であろう。広義の詩である。広い広い広ーい意味での詩。詩がベースだから料理だから、絵も音楽も小説も映画も、科学も生物も宗教も全部そこに入れてしまうような、世界としての詩。摂理としての詩、思想としての詩、元素としての詩。存在としての詩。まあ、超広義だからあまり細かくは言いたくない。


もっと有り体に言えば、画力には自信がなく、宗教心も薄く、というだけのことであるかもしれない。その分、詩ならば責任も取れるだけの努力と困難と愉悦と悲哀を積み重ねた、と自分で思い込んでいるのかもしれない。それもそれで構わない。この未明体がどこへゆくのか、この未開体がどのように白んでゆくのか、それが大事だからである。


『ナジャ』や『ファシール』が伝えてくれたものはイマジネーション。その翼(翅)のありようや飛翔力であったろう。素描や俳句が好きなのも、想像力の翔ける広い空ががらんとあるからだろう。ふうらかんは北条石仏から飛び立った草の絮のようなものかもしれない、とどこかに書いた。その石仏自体も謎に満ちて、イマジネーションの乗算がそこにある。どこへ飛んでいくか、ほんとうにわからない。
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by r_bunko | 2014-02-19 20:39 | アート
ブルー・モンク、ブルー・ポエム
ブログ記事を書いて投稿する時に、あららと驚いていることがある。
詩のカテゴリーを作っていないのだ。
えっ! と自分で呆れて、されど今更追加もというのでそのまま。
ブログをスタートしたのは2005年1月。
詩は書かずもがな、というスタンスではいたけれど、
そうか、詩はどこかでもっと深く断念していたのかもしれないな。
表現は孤独な作業でいて、自分独りの営為では続かない。
いつかだれかの胸に届くだろうと信じて、はじめて発信の力を得る。
アイデンティティーを奪われるとどうなるか、身を以て体験した。
気力、意力はどこから出て、どこへ向かうのか思い知った。

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今日はセロニアス・モンクの命日。64歳(なんという若さだ)。
この稀代のジニアスは晩年の10年間、ほとんどピアノを弾かなかった。
精神も身体も病んでいたとはいうけれど、そのことが信じられなかった。
バド・パウエルは独房の壁の架空の鍵盤を指で押さえて、
見舞いに来たエルモ・ホープに「この音はどう?」と尋ねたという。
そういう人たちなのだと思い込んでいる。信じ込んでいる。
だからモンクが鍵盤にすら触れなかったことは気にかかる。
同様なことはドド・マーマローサにもユタ・ヒップにもある。
それぞれに理由も事情も異なる。ほんとうのところは誰にも判らない。
おそらく本人にも、そのようになる流れはどうしょうも出来ず、
なにか他人事のような哀しさもあったのではないか。

2011年に『春とピアノ』『春と石仏』を書いた。
そこでドドやユタに思いを馳せた。
ドドもユタもモンクも、もうピアノには戻って来なかったけれど、
ぼくはなにやら詩に戻っているのか、いないのか。
記事の投稿時に詩のカテゴリーがないのに呆れ当惑しているのである。
この十年ほど、詩のカテゴリーなど無くても事足りたのも事実。
昔のどこかではぐれてから、詩も生も常に未明未開の「?」であって、
それが時々小さな「!」に置き換わる。
野に出て草花や小鳥たちと同じ空気を吸えばそうなってくる。
それが出来なくなった、と嘆いているのではない。
元気になれば、またのこのこ野に出るだろう。
籠もっていても、鳥や木や風のような声はある。
セロニアス・モンクのピアノの音なんかもそれである。
今日も朝からたくさん聴いて一つの「!」を得た。
それがまた新たな「?」を生み出していく。
詩などは小鳥の地鳴きや囀りのように書いていたい。
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by r_bunko | 2014-02-17 20:55 | 本・電子本
そこらの春、ここらの雪
散歩したいけれど、どこか体の遠くでちょっとふらつくので自制。
風も時々思い出したように意地悪吹き。
昨年から<そこらの春>ということを気に留めて、
メモのような、フィールド・ノートのような詩片を綴っていた。
それがそこらへも出かけられなくなって淋しく侘びしい。
で、隣の空き地へふらふらと出る。
列島が南岸低気圧の大雪に見舞われた14日も雪の中へ出た。
この辺はうっすらと斑に積もっている程度で、
それが文字や紋様に見えて面白そうだったのだ。
雪の降る中だから体もカメラも長居はできない。
素早く手際よくあちらへ回りこちらへ飛び、
誰か目撃していたら、変人の狂態に映ったに違いない。

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そして変人は、雪の獏と出会う。
体つきは見事な獅子、けれど鼻が長く伸びているので、これは獏。
その他にも撮った写真をPhotoshopでコントラスト調整すると、
雪の描いた文字が面白く浮かび上がって来た。

 詩と写真「雪文字」
 詩と写真「立春のロゼット」

そこらどころか、ここらに縮んでしまったけれど、病後の最新作。
それからこの度の大雪に触発されて、雪の小詩集を編んでみた。
雪国に住んでいた頃の詩編で、表紙は獏にお願いした。

 小詩集『雪・白墨記』

初めて大雪に見舞われた土地は大変だろう。
我が身はもう雪掻きなどとんでもないことになってしまった。
雪国の老人暮らしはさぞ厳しかろう。
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by r_bunko | 2014-02-16 19:20 | 自然
十露三百六十五句
「十露一句」が一年、365句と一巡りした。
ひょんなことから始まって、飄々体でやったのが良かったのだろう。
最後は病床、病体であったけれど、そこは俳句の強み、
世界の一片、永遠の一瞬で事足りて、文芸は成立する。
まあ、出来映えはともかく、日記類の苦手な身としてはよく続いた。
何事も簡素、素心をこころがけているから、
俳句も淡口、薄味になる。とこれは体のいい言い訳で、
その上での深みが出せなかった、というのが現在の力量だろう。

ざっと振り返って、十句ほど選んでみた。

  野遊のこどもらみんな神隠し
  春昼といふ金色の湯舟かな
  雨二日あぢさゐ軽き躁に入る
  花南天雀の喧嘩のちーぱっぱ
  風鈴を吊るせば風が客となる
  空に鞭入ればいななく風の馬
  山盧忌や盆地を出でぬ草の絮
  朝寒やがらがらがらと妻歌ふ
  虫喰ひの穴は枯れずに日の光
  心根も大根も干して甘くせり

別の時に当たればまた入れ替わりがあるだろう。
けっこう迷いもあっての十句で、俳句はこういうところも難しい。
付録に境涯二句:

  生涯の雨模様ならば虹を追ふ
  世にあれど独り小春の影法師
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by r_bunko | 2014-02-13 19:37 | アート
呼吸は生物の一大事
風邪を引いた。
風邪対策に今冬は反射式ストーブを購入したのに。
お湯が涌かせて、鍋が煮られて、加湿が出来て……

さて、禁断の風邪を引いて、寝込んで、病院に行って、
新たな薬生活ということになった。
気管支拡張の吸入薬の助けを借りての生活だから、
いよいよ待ったなしの晩年ということになる。
いまはまだ風邪も脱けておらず、咳も続いているので、
薬の効果による呼吸具合は計りようもないのが残念。

まあ、若い頃には野垂れ死に結構などと、
突っ張っていたのだし、覚悟は出来ているが、
独りではともかく、相棒がいるとなるとそうもいかない。
たったひとり全部の作品を読んでくれていて、
ずっと才能を信じて支え続けてくれたのだから。
やっておきたいことはいっぱいある。
電子本作りもその大事であるけれど、
これがなかなか認知されず、茨の道がどこまでも。
 
   ※(追記)

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久々の遠出は山の上の病院。
その敷地から見た懐かしの蝸牛山。右に世界最大の地球儀時計。
東の散歩コースはこの界隈、山向こうの丸山公園、手前の谷田池。
カワセミ、イカル、ミヤマホオジロ、アカゲラ、ルリビタキ、ベニマシコ、
去年はウソやキクイタダキにも出会ったし、ヨタカやトラツグミもいた。

カラスウリ群落も、サザンカ市もこのあたり。
スズメウリの飾りをまとった小さな杉のクリスマス・ツリーがあったり、
暗い杉林の中に咲く背の高いコブシが人知れず満開だったり、
とびきり美声のアオジが、麗しい歌を聴かせてくれたりもした。

冬から春がそういったシーズンだけれど、今年はまだ訪れていない。
病院通いの二度、遠目に眺めただけ。
帰りに元気があったら蝸牛山経由で散歩、という案は、
寒さと風の冷たさで断念。気温がまったく上がらない。

薬はさらに一つ増えた。予想より一段悪い。
二週間後にいろいろ精密検査があるものの、一段覚悟を引き上げる。
呼吸は生物の一大事だとつくづく思う。
わが呼吸はいつかは止まるのだろうが、詩や俳句や絵の作品、
電子本の一冊一冊に、いつまでも新鮮な呼吸をとどめたい。
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by r_bunko | 2014-02-10 22:33 | さまざま
立春のロゼット
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暦の上で春は立ったが、空からは雪がひとひら、ふたひら。
雲は広がって厚く、風は冷たい。
それでも時折陽射しがあるのが播磨のほっとするところか。

隣の空き地で、立春のロゼットを巡ってきた。
パッと見てすぐに何の、と判別できるものは少ない。
オニノゲシ、オニタビラコ、タンポポ……。
ここは少し草丈が高くなると除草剤を撒かれてしまうので、
一年を通しての草の盛衰を追えず、その分印象も薄い。
ロゼット植物はこんな環境が好きなようである。
いまここで花を着けているのは、ナズナと、
よく見れば地面に這いつくばって可憐なトキワハゼ。
カンサイタンポポで花が萎れたのが一株、
綿毛を寒風に晒しているのが一株あった。

c0028055_18301038.jpg

立春の旅(散歩)をしてみたいけれど、病み上がりは隣がせいぜい。
雲は分厚く西から流れるのと、薄くて速い南からのが交差する。
慌ただしい空にしろじろとした繊月が出たり隠れたり。
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by r_bunko | 2014-02-04 18:32 | 自然



詩と、絵と、ジャズと……星と鳥と……漂泊文庫便り
by r_bunko
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